「作」は救いになるか?
何を原動力に「作」るか
病んでいる時、負の状態からの抜け出し方は人それぞれだと思います。寝る人、食べる人、体を動かす人、お金を使う人など。それと同じく作品を作る人もいて、というかわたしはそういう人なんだろうと思います。
題材としての「怒り」
上に書いたように創作活動において「怒り」を原動力にしているのは「それがわたしのストレス発散方法だから」という理由なのですが、題材としても「怒り」を取り上げることが多いです。
いらいら、めらめら、ふつふつ、もやもや。激しいものや静かなもの、悲しみからくるものや愛情からくるものなど。
「怒り」と一口に言ってもその種類はたくさんあるし、ニュアンスには結構違いがあるなと感じることが多くって、わたしはそこにすごく興味があります。個人個人でも違いが大きくて、なんでそこで怒るの!?と思ったり思われたり、怒らないんだ~と思ったり思われたり。
しかも「怒り」を感じてる時ってその対象へのエネルギーが強すぎて周りが見れない上に、その気持ちを昇華させるためにとりあえずの同意を求めがちなので、なおさら自分と「怒り」への感性が違うことが気になってしまうような気がします。
どの感情も人それぞれ違うよ!と言われればそれまでなのですが(逃げ再び)、自身の「怒り」への興味から題材に使うことが多いのかもしれません。
さて、「事実は小説より奇なり」という言葉があります。現実は虚構よりもかえって不思議である、という意味の言葉です。
その通りすぎる〜〜〜〜!!!!!!
大した人生経験もないのですが、それでも「こんなことってある?」と思うような出来事は何回かあります。不思議で、理不尽な、「虚構のような現実」とでも呼ぶべきでしょうか、きっとわたしだけでなくみなさんも経験があるのではないかと思います。
自分に降りかかる「虚構のような現実」は、時に耐え難いほど気味の悪いものです。「怒り」のような負のエネルギーに自分が侵されてしまう感覚は辛く苦しく、でも生きていく上で誰もが感じるものではないでしょうか。
当然ですが演劇とは虚構です。
現実のような虚構も、虚構のような虚構も、好き勝手に「作」ることができます。そしてその作られた虚構は、どんなに不思議であろうと、理不尽であろうと、必ず終わります。
台本書いてて思うのは、現実の方がずっと気持ち悪いということと、それに気付きたくないからフィクションとして舞台にのせてるし、必ず終わるから観ているし、観たがっているのかなあ、ということ
— 野花紅葉 (@momiji__44) February 12, 2018
似たようなことを過去にツイートしていました。
この内容がつまるところなのですが、わたしは「虚構のような現実」への抵抗として「作」をしているのだと思います。
「作」は救いになるか?
ここでの救いというのは、あくまで「作」であるわたし個人の、という意味です。もっとも、演劇をやる側としても観る側としても、わたしは上に書いたように「怒り」や「虚構のような現実」への救いを求めているのですが。
語弊を恐れずに思い切って書くと、わたしにとって「作」は八つ当たりです。
日々のストレスを解消する手段として、自分が覚えた「怒り」と「虚構のような現実」への抵抗と昇華の手段として、の、八つ当たりです。
「作」は救われるためにあるか?
最後に
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2020.01.01 15:59